教室とは

上京すると必ず立ち寄る東京駅OAZO丸善
そこで偶然手にとって購入してきた本。
このところじっくり読んでいた。
以下メモがわりにキーワードを抜粋。


具体的なある教育実践への筆者のまなざしに始まり,
その理論的根拠がメルロ=ポンティとワロンに基づいて書かれている。
一方向的な教授方法論ではなく,おとなとの関係のなかに子どもを観ること。
未分化な自他が共存する根源的状態にささえられた,合一と分離の関係。
そこで育まれる「私という意識」と「表象する力」。
おとなが上手に教えようと欲するより先に,
子どもは関係のなかで学び「イメージ」を「表象」化していく。
子どもにとっておとなは意味生成の媒体である。

 理解とは基本的に,関連することばを運用しながらも,自らの身体感覚的な「イメージ」を手探りし,ある瞬間,これまでのことばを超える「表象」を実感する「意味生成」である。これを表現することばは,明晰ではなくとも体験を共有する者達には以心伝心し,皆で同時に理解することができる。
 それは世界が拡張される体験である。その前には「わけ分かんなくなる」思いに耐えなければならない。見守る「意味生成の媒体」が必須であり,ここに教師の生成がある。教師との関係は,身を養われるという意味での親との関係とも,システムを維持する苦楽をともにするという意味での仲間との関係とも違う,より根源的な人間関係である。そうした教師の身の広がりの全体,意味生成の飛翔が見守られる時空の全体が「教室」である。(P.32)

教室とは何か,教師とは何か。
私も自分なりに言えるようにならないとなぁ・・・と思い続けて早数ヶ月。
まだここに書けるほど明確になっていないけれども
この本は,実践と理論がちゃんとつながっているので
私にとっては良い手がかりになりそう。