「ナラティブと医療」

手に入れてからなかなかじっくり読めずにいたのだけれど
ようやく読み終えた。
どの章も迫力があってひきこまれる。
それはまさに書き手のナラティヴだからなのだろう。
書き手の見聞きした外界や生活を含めて生き生きと綴られていて
読み手である私の生活する世界に突きつけられるような思いがする。


心理の仕事は聴くことが仕事なので
相手の生活に寄り添って語りを聴くということは当たり前のように感じるが
医療の世界は必ずしもそうではなかったらしい。
特に身体的な病いや怪我の場合,
それに対する治療や処置が第一だからなのかもしれない。
実は今身内が入院していて毎日のように病院通いをしているのだけれど,そこでも感じる。
様々に生じることになった不自由への苦痛や怒りは「我がまま」「頑固」とされたり
「これまで多くの症例をみてきたから医療者の言うことの方が正しい」と言われたり。
もちろん,やらなくてはいけないことがたくさんあって
患者のペースだけに合わせているわけにもいかないんだろうけど・・・。

*生活者にとっての病いとは,生活や人生や人間関係を脅かす(かもしれない)心身の状態であり,サファリングを軸に,ライフ(命,生活,人生,実存)との関連で意味づけられ定義される出来事である。(p.77)
*「ナラティヴを理解すること」とは,提示されたナラティヴを手がかりに,この「語りえないもの(言葉にはならない感覚や想い)」への共感を示し,それによって深い位相から,ストーリーの書き換えの可能性を開いていくことなのである。(p.102)
*医療者の,「妄想の語り」ではなく「苦しみや渇きの語り」として傾聴し,感嘆し,質問を重ねる態度だけでは決して治療的にはならず,その態度がポジティブな意味をもって響き,医療という権威的介入を行う医療者が当事者により「赦される」瞬間から,協働の関係性が始まるのではないだろうか。(p.172)

これらを読んでいると
生活者としての患者をみること
語りえないものにも気づくこと
謙虚な姿勢を持つことなどがいかに重要か実感する。
同時に臨床家としての自分も反省するのだけれど。


身内として病いの語りを聴く上でも学ぶことが多かった。
「前に比べてこういうところが良くなっている」とか
「これからこういうことができるようになったら・・・」など
つい口にしてしまうのだけれど
当人にとってはそんなに簡単なものではない。
他人に言われたから書き換わるものでもない。
まずはとにかくそこに居続けることから。

*(即興で語られるナラティヴ)には,矛盾,不整合,飛躍,謎が含まれていることが普通であり,きれいに完結せず,変化へと開かれている(p.61)
*自律は,他人の物語をむやみと書き換えてはならないー当人の物語は,あくまで当人が書く,という至極当然の原則である(p.90)

とはいえ,病いの傍らに居続けるのも簡単ではない。

「医学が客観性を重視するあまり「苦痛の共感」を忘れてしまっていないだろうか。しかし,「残酷な冷たい目」を持たない「苦痛の共感」も問題である。それは「正確さを欠く」からだとボスナックは言う。正確さを欠くと状況が見えなくなり,しばしば治療者も患者の苦痛や病いに飲み込まれてしまう。「心理的な感染」といってもいい。(p.121)

以前,何かの講演で,
障害のある子の親は様々に勉強し,子どもへの関わりを学んでいく中で
「専門家」の顔になっていく,でも「親」らしさも持っていて欲しいと願う,と
言う話を聞いたことがある。
自分の場合を考えても,
時々「専門家」として少し客観的に病いを理解しようとすることがある。
そのほうがある意味で楽なときもある。
でも当人の苦痛や病いに飲み込まれたり,家族としての痛みで抑うつ的になったりもする。
そういうものも抱え続けざるを得ないんだと思う。


・・・と,なんだか自分の心に残った箇所を恣意的に選びとって
つらつらと書いてしまったけれども。
とにかく良書なので,すべての医療者に読んでもらいたい本!